こんにちは、アシスタントの多部 茶医奈(@chaina_tabe)です。
今日は哲学的な話題ですね。
そうだね。いつもの私の病気が発症した感じかな。
救急車呼びましょうか?
自分自身について考えるための前提とは
自分自身を正確に捉える事は非常に難しい作業である。
何故なら基本的には自分の主観や解釈を通してでしか世界を捉えられないからだ。
故に自分が現在体験している世界は、自分の認識に基づいた結果でしか無い。
それでも自分自身を見つめる事は大切である。
何故なら自分の持つポテンシャルを最大化させる可能性を秘めているからである。
今回は自分自身を可能な限り正確に捉え、自分の潜在能力を最大限発揮するための方法について考察したいと思う。
まず世の中で確実に信用できる概念は存在するだろうか。
答えは一切無いというのが私の結論である。
何故なら正しさを証明するためにはそれを担保する根拠が必要であり、その根拠自体が世界に存在する事を証明する事が不可能であるからだ。
これを突き詰めると何も信用できなくなるので精神的な拠り所が存在しなくなり、メンタルに悪影響を及ぼしてしまう危険性を孕む。
故にある程度自分の中で限定的でも良いので線引きをして、気持ちを割り切る作業をする必要がある。
何事も突き詰めると終わりが見えない深淵へと転落してしまうので、哲学にハマるタイプの人間は過度に行き過ぎない様にある程度思考する癖をセーブする習慣を持つべきである。
とりあえずここではデカルトが説いた様に、自分自身を疑う自分自身は確実に存在するという根拠を採用したいと思う。
我思う、ゆえに我あり
ルネ・デカルト – 方法序説
自分自身が本当に存在するのかという事自体が哲学的なテーマですよね。
そうだね。哲学をやると嫌っていうほどこの問題にぶち当たるよ。
もしかしてこの件に関しては若干ノイローゼ気味ですか?
若干どころかこの問題のせいで精神的に病みまくってます。
今すぐ病院に行って下さい。
社会と関わることの本質とは
その上で考えるべきことは、積極的に社会と関わるべきということだ。
世間ではよく社会と関わって生きる事がしきりに推奨されており、親や先生などの教育者は子供に対して社会と関わる事を逐一強要してくる。
私が子供の頃は、親や教師が何故社会と関わることが大切なのかという根拠を明確に提示せずにひたすら主張ばかりを繰り返していたので、私はずっと腑に落ちなかった。
だが最近は少し自分なりに少し理解することができてきたので、私の考えをここでシェアしたいと思う。
結論から述べると、社会を知るという事は自分自身を知る事であると私は考えていて、もっと言うと社会と個人はシンクロしていると考えている。
この事実を認識した瞬間に、社会と関わる事の重要性がある程度理解できるのでは無いだろうか。
世間の大人たちが口を揃えて社会と関わるべきと激しく主張するが、総じて根拠が伴っていないので一切説得力を持たないのである。
社会と関わる事で自分自身をある程度客観的に観測する事ができ、それにより自分自身の潜在能力やポテンシャルの可能性と限界を学ぶことが可能となる。
他人に尽くすという行為は一見すると利他的な行動であり、自分を滅する思想の様に思えるが、その本質はあくまでも自分がこうしたいという発想に基づいたエゴイズムに過ぎないのである。
この本質を悟らずに他者に貢献していると勘違いしている人間は極端で偽善的な行動を起こし、結果として双方が不幸な方向に向かってしまったり、不用意なトラブルを起こしたりする。
人間の本質部分では、どうしても利己心や私心というものから逃れることはできない。
だがその事実に対して過剰に悲観する必要も無く、しっかりとその現実を受け入れた上で行動する事ができれば、しっかりと調和の取れた慈善活動を行うことも可能となるのである。
最終的に問い詰められるのは社会や世界、ましてや他人では無く、自分自身という境地である。
故に自分自身を信じるという強い覚悟を持たねばならない。
そして自分自身を信じる為には、自分に負けない為の強靭な精神を培う必要があり、それこそが古来より日本精神から醸成されてきた武士道という思想に帰結するものであると考えている。
個人と社会がシンクロしているという発想は面白いですね。
これは私の個人的な考えなんだけど、そう捉えるとなんか腑に落ちるのよ。
社会と関わることで新たな自分の側面を発見する事ができますよね。
そうだね。社会と向き合うと嫌っていうほど自分の才能が潰れまくるよ。
(なんでこの人はいつもこういう病んだ発想をするのかな、、、)
自分と向き合うために必要なことは
自分を信じる為には自分と戦わなければならない。
それは自分以外の外的世界にその基準を見出すのではなく、あくまで自分の内面的な部分での実存を一番に重要視するべきであるという事だ。
もちろんコレにはある程度バランス感覚も必要であり、あまりにも自分自身に意識が向きすぎると理想主義的な発想に傾倒し、現実離れする偏った思想になりかねないので、ある程度社会性という現実と向き合う作業も重要である。
人間は弱い生き物なので、社会的に一切認められない状況で生きていける程精神は強くないだろう。
むしろ孤独を感じたり、疎外感や空虚感を感じるのが人間が世界に生まれ落ちた瞬間に備わる普遍的な感覚であるので、その気持ちを蔑ろにする事は心理学的な観点から考えてもあまり合理的ではないし、何より精神的に不用意に悪影響を与える危険性がある。
故に精神の安定を図る為にもある程度社会的に認められる様に努力して行動することは必須であると言える。
だがそれはあくまでも自分自身を認めるというプロセスの上での副次的な要素でしかなく、最終的に問われるのはやはり自分自身を信じられるのかという最大の問題に帰結する。
感覚としては哲学思想における実存主義的な感覚に近い。
サルトルが人間の全てを実存に求め、一時期若者から熱狂的な支持を得たが、後に構造主義という思想が台頭した事で一気に下火となった。
実存は本質に先立つ
ジャン=ポール・サルトル – 実存主義はヒューマニズムであるか
ただ個人的に私はこのキルケゴールを先駆者としてニーチェやサルトル等が提唱した実存主義は、自分自身と向き合うにあたって必要不可欠な思想であると考えており、武士道の考え方にも通じる点があると考えている。
ある意味で実存主義という性格上、構造主義を提唱したレヴィ=ストロースが批判している様に、それまでの西洋哲学の流れであった理性中心主義に警鐘を鳴らしている点ではある程度私も理解を示している。
そして実存主義は哲学の王道である本質哲学から外れたアウトローな学問分野であり、決して純粋にアカデミックな領域とは言えない。
だが人間が本質的に精神的な生き物である以上、センチメンタリズムと人間は切っても切れない関係であり、感情的な感覚や理性を用いて世界の仕組みを探求するという試みは、現代思想がしきりに批判する程悪きものであると私は思わない。
もちろんある程度現実と向き合って地に足のついた生活をする事も大切だが、それだけで割り切れる程人間は単純な生き物ではない。
私にとって実存哲学はより良く生きるためのライフハックであるという感覚である。
実存主義って哲学の分野の中でもダークなイメージがあります。
そうだね。特にニーチェの「神は死んだ」という有名なフレーズに代表される様に、実存哲学は徹底的に常識を破壊する性格を持っているからね。
でもある意味で凝り固まった既存の価値観を取り払ってくれるので、視野が広がる感覚があります。
そうね。私にとって実存主義は音楽に例えるなら爽快なロックミュージックっていうイメージかな。
その例えはすごくわかりやすいですね!
形而上学を学ぶことの重要性について
人間の右脳にはイメージしたり感性を働かせる機能があり、女性は比較的に感覚的な概念を言語化する事に特化している部分がある。
故に理屈や理性だけでは到底到達し得ない境地に自分の精神性を見出す事ができ、私はここに純粋なヒューマニズムの真髄を見出す事ができる。
かの文豪たる夏目漱石も様々な哲学的思索を深めたが、最終的には宗教的境地にたどり着いた様に、人間が理性を持つ生き物であるという性質上、その理性の限界を悟る瞬間が必ず訪れる。
現に今の現代思想の潮流は理性の限界を悟り、理性中心主義によって生み出された世界での数々の不幸による反省から、改めて理性だけで世界を捉えようとしないメタフィジックな感覚、いわゆる本質哲学の重要性というものが再考され始めている。
人間の理解を超えた超越的な概念というものは人間の持つ科学的アプローチや論理性だけでは決して到達する事ができない領域であるが、ごく単純に思いを馳せる事であれば誰でも可能だ。
そういう現実の物質世界のみに囚われないある意味で形而上学的な感覚を持つという事が現代世界においてますます重要な要素となってくるであろうと私は予測している。
現代では科学文明が目覚ましい発展を遂げ、世界における宗教的影響力が年々低下してきているが、理性の限界にぶち当たった人類は改めて宗教の重要性を再認識すべき時代に来ているのではないだろうか。
自分と他人が本質的に理解し合うことはほぼ不可能であると考えているが、それはあくまで形而下学上での話であり、メタフィジックな領域での精神の合一という可能性は残されていると思っている。
ある意味でこの思想は論理的な根拠を持たない単なるロマンチシズムでありセンチメンタリズムであるという批判を受けそうだが、論理や科学という枠組みに囚われない開かれた発想こそが日本精神の真髄であり、日本文化の強みであると私は考えている。
自分を見つめるという作業は自分自身と戦い続ける事であり、それを命が尽きるまで突き詰めていく事が自分の可能性を追及し、自身の内面的な実存を構築し、幸福に生きる為の要素である。
理屈よりも感情を優先する感覚はなんか日本人的ですね。
まぁ、私は生まれも育ちも生粋の日本人だから、、、
最近は何かと「日本はオワコン」みたいに叫ばれてますけど。
そうだね。経済的にも「失われた30年」というフレーズがあったり、何かと明るいニュースが日本ではなかなか無いからね。
その点について先生はどうお考えですか?
やはり日本人である以上、世界における日本の存在感をもっと高めたいし、経済的にも立ち直って欲しいと考えてる。パラノネコ事務所は少しでもその為のお手伝いができたらいいなと日々考えてるよ。
そうですね。変に腐らずに、日本を立て直すために一緒に頑張りましょう!
多部ちゃん、頼りにしてるよ!
多部ちゃんと呼ぶのはやめてください、、、
こんにちは、心理思想家のパラノネコ(@neko_parano)です。